コラム

2018.7.12 木曜日

“ヘルスプロモーション”への挑戦 I ウォーキング編
5 次のスタート

さて、年が明けて1999年。最初のプロジェクトが終わってほっとしたのも束の間、次の準備を進めなければならなかった。まず進めなければならないのは、昨秋のプログラムに応募して選外となった方々のために、翌春の企画を進めることであった。

もちろん、昨秋とまったく同じ「ウォーキング教室」であるならば簡単にできる。しかし、これは「研究」なのである。単に、応募した人たちだけのためのサービスとして開催するわけにはいかない。なんらかの仮説を検証し、新たなプログラムを開発するのに貢献するというような確固とした目的がなければ、私たちが実施するメリットはない。最終的な目標は地域住民の健康増進にあるけれど、私たちは巷のフィットネスクラブではないし、行政などの公共サービス機関でもないからだ。

ところで、この連載の最初に述べたように、昨秋のプロジェクトは文部省のカケンヒの裏付けのもとで行われていた。翌年以降も続けるためには、研究の目的を明確にするとともに予算的裏付けも必要となる。そこで、その必要性に迫られた98年8月の時点から民間の研究助成財団への申請書をいくつか作成し、そのうちの一つは10月頃に採択される見込みが立った。「高齢者の筋骨格系機能維持のための運動処方の開発」と題するもので、金額は少ない(45万円)ものの、「高齢者体力づくり教室」として開催したうえで一緒に「ウォーキング教室」を開催すれば、大抵の経費は賄うことができる。

 

そして1999年春、第Ⅱ期のウォーキングプログラムが始まった。前回(98年秋)は、定員60名に対して194名の応募があって熱狂したのであるが、そこで積み残した方々もさることながら、前回のチラシを見逃した潜在的な希望者もまだまだいるだろうとの見込みで、今回のウォーキング教室の定員は100名とした。同時に、前回同様に自主ウォーキング(B群)も設け、合計200名まで受け入れる準備を整えた。

ところで、私たちの「所沢キャンパス」は所沢市の西端に位置し、市内の行政区分でいうと「三ヶ島地区」に所在する。この地区には西武池袋線の狭山ヶ丘駅があるが、キャンパスへのバスは隣の「小手指地区」の中心である西武池袋線・小手指駅に接続していて、この二つの地区がキャンパス周辺地区と考えている。

そして、周辺の主要な居住地域としては狭山ヶ丘駅および小手指駅の各々の駅周辺ならびに小手指駅からバスで結ばれている椿峰ニュータウンの3つがある。もちろん、駅から離れた場所に住んでいる人々も多いが、キャンパス自体は市街化調整区域にあって、その周囲には住宅が密集しているわけではない。

もともと98年の8月に「参加者募集のチラシ」を配るに際しては、印刷屋さんからポスティングを勧められ「応答率を考えなければダメだよ」と言われたわけであるが、「いったいどの程度の方々が応募してくれるのか」ということについては全く見込みがなかったし、「参加応募者がいなかったらどうしよう」という不安も抱えていた。

そして、「こういう『健康モノ』の企画に興味を示してくれるのは、地元の人よりもむしろ埼玉都民と言われるような人たちなのではないか」との微かな認識もあったし、「集合住宅の方が簡単に多量のビラ・チラシを配れる」という業者側のメリットもあった。つまり、「三ヶ島」と「小手指」というキャンパス周辺といえる二つの行政地区内の住戸にはチラシを配ろうとしたけれども、大学キャンパスの裏手に広がる市街化調整区域だけはチラシを配らなかったのである。

 

キャンパスの裏手(西側)にある堀之内ならびに糀谷(こうじや)という二つの町字には、狭山茶の畑が散在すると共に牛舎や杉林や湿地があって、その合間にポツンポツンと住戸がある。チラシを歩いて配るのに一戸ごとに一分以上かかるような地域は、ポスティング業者としてもあまり嬉しい地域ではなかったようだ。「そこにも配りますか?」という暗に“No”を期待している問いかけに対して、「やめときましょう」と答えたのも自然なことだった。

実際、その地区に居住する40~70歳の対象人口は600人程度だったし、もしそこに配ったとしても2~3名程度の応募しか見込めなかったわけであるから、配らなかったこと自体は応募者数にはあまり影響を与えなかったわけで、“業者泣かせ”の注文をしておかなくて良かったと、いまでは思う。

しかしながら、その頃の私の頭には、常に「配り残した地域」という思いがあった。私にとってポスティングは、もはや単なる参加者募集の“情報伝達”の手段なのではなくて、“参加者募集という情報”に対する応答を把握・認識するためのいわば“マーケティングリサーチ”の手段だった。住宅地ではないとはいえ、そこにすむ人々がどのような意識で生活し、どのような健康状態にあって、私たちがどのように役立てられるのかということを調べ損なっているという気持ちが消えることはなかったのだ。(つづく)