コラム

2019.2.26 火曜日

僕を救い、成長させてくれたZUMBA🄬―小林研太郎さんに聞く(上)

 

 

 

 

 

 

小林研太郎(こばやし けんたろう)

大阪府出身。2007年ZUMBA🄬に出会い衝撃を受け、勤務していた会社を辞めてZUMBA🄬インストラクターに転身。2013年にZumba®️ Jammerオーディションに合格。

 

 

中村 まず、小林さんとZUMBA🄬との出会いについてお聞かせください。

 

小林 子どもの頃は野球少年で、小学校でリトルリーグ、中学高校では野球部でずっと野球一筋でした。大学でも本格的に野球をしたいと思い、東都大学野球連盟に加盟している大学のセレクションを受けましたが推薦枠に入れず、最終的に入学できた大学で野球部に入りましたが、同好会的な感じで、もう本格的にはできないなと諦めました。

卒業後、広島県福山市(当時は芦品郡新市町)にあるアパレルメーカーの上場企業に入社しました。小売店を回るルート営業を担当、月の3分の2は担当地区を出張する出張族でした。就業規定が曖昧でサービス残業が当たり前。出張しない在社時は絶対に定時に帰れず、毎日、夜中2時3時に帰って翌朝8時に出社という繰り返しでした。それで心身共に不調となりダウン、3か月間休職して大阪の実家に帰ったんです。

母親がスポーツクラブに通っていて、ある時、「家で何もしないでゴロゴロしてるんやったら一緒にスポーツクラブに行くか?」と誘われて、一緒に通い始めました。筋トレやランニングなど運動を始めたら身体が締まってきて(当時の体重120キロ)、身体を動かすことにハマって依存症のような感じになりました。

会社に復帰してからも、広島県福山市内にあるホリデイスポーツクラブに通うようになりました。職場の部署を変えてもらい定時に帰れるようになって、スポーツクラブが心の支え、逃げ込むように行っていました。2007年にZUMBA🄬が日本に入ってきた時にホリデイでは、いち早く全店舗でZUMBA🄬を展開し始めました。そこで初めてZUMBA🄬に出会ったんです。

 

中村 文字通りZUMBA🄬の一期生なんですね。それでZUMBA🄬にもハマった?

 

小林 いえ、最初は10分でスタジオを出ました(笑)。ダンスもエアロビクスもやったことがないし、こんなくねくねできないと。そのあと3か月くらい間が空いて、筋トレをしながらZUMBA🄬のレッスンをしているスタジオを見たら、すごく楽しそうだったんですね。みんな汗だくになってトランス状態でした。友だちに誘われるままにもう一度レッスンに出てみました。できないのは分かっていたので隅っこの方でやるというか見るというか・・・すると、音楽が入ってきて、ZUMBA🄬の音楽にハマったんですよ。

それから毎週、ZUMBA®️の音楽を聴きたくて通っていました。毎回出ているうちに踊りもできるようになったのでさらに楽しくなって、スポーツクラブの仲間もすごく増えたしクラブに行くこと自体が楽しかったです。

その頃、ホリデイスポーツクラブ福山店ではZUMBA🄬のPRのために全国行脚をしていたメンバーの一人中沢清光というインストラクターが大人気で、いつも130人ぐらい集まっていました。普通、サラリーマンって日曜日の夕方は憂鬱になるじゃないですか。僕は月曜に中沢さんのZUMBA🄬のクラスがあるから真逆でルンルン♪でした。会社の外で大学のサークルのような仲間ができたことが心強かったし嬉しかったです。毎日が楽しかった。

中沢さんが転勤となった時にはみんなでわんわん泣いて、みんなホリデイに来なくなってしまったんです。十数人いた仲間のうち残ったのは僕も含めて4人なんですよ。にぎやかだったクラブが急にシーンとなってしまって。たまたまその時にZUMBA🄬のことをいろいろ検索していて、「2日間講習を受講したらインストラクターになれる」ことを知りました。

 

中村 それでB1(当時レベル1)を受講しようと?

 

小林 中沢さんがいなくなって寂しくなっていた頃に見たので、「じゃあ僕がやるか」みたいな気になりました(笑)。僕がやってみんなを笑顔にしたい! スタートはそんな動機でした。僕も会社に復帰した後で、僕自身の唯一の居場所をなくしたような感じがしていたので。でも、どうしたらいいのか、会社を辞めてインストラクターとしてやっていけるのか、 地元のインストラクターさんたちに相談もしてずっと悩んでいた時期がありました。

 

 

 

 

 

 

 

その頃、ホリデイの友人から、掛け持ちでもう一つのスポーツクラブに入会しないかと誘われていました。入会した次の月に、豊福章江さんのスペシャルレッスンがあったんです。初めてZES™️の豊福さんのレッスンを受けて、僕は衝撃を受けました。終わってスカッとした時に、「これだ!!」と迷いが吹っ切れて、「会社を辞めてZUMBA🄬インストラクターになる!」と決心しました。豊福さんも後になってから「スタジオに入った時にキラキラした人発見! もしかしたら、将来この子と一緒に仕事をするかもしれないと思った」と言っていました(笑)。

 

中村 それはいつ頃ですか?

 

小林 2009年11月です。周りの仲間からは「上場企業を辞めるのはもったいない」とか「脱サラしてインストラクターになった前例がない」とか、いろいろ言われて反対されました。でも、僕としては、野球も中途半端で終わり会社の営業マンとしての仕事も中途半端に終わり、このまま会社に勤めながらZUMBA🄬を続けてもまた中途半端に終わるのではないか、やるなら徹底的にやろう! と決心しました。まず母親に「やりたいことを見つけた」と報告をしたら喜んでくれました。プロ野球選手になりたいと言った時には「現実を見ろ」と言っていたのに、「やりたいようにやり」と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌年2010年2月に愛媛県今治市まで豊福さんのZUMBA🄬パーティーを受けに行きました。理由は、豊福さんにインストラクターになるという僕の意思を伝えに行こうと思っていたからなんです。たぶん、豊福さんに背中を押してもらいたかったんだと思います。でも、それ言う前に豊福さんに「インストラクターにならない?」と言われたんですよ! こんなこともあるんですね(笑)。

 

中村 反対していた周囲の人たちは?

 

小林 急にみんな応援してくれるようになりました(笑)。会社には、会長と人事部長に時間を作っていただき、「やりたいことが見つかったので会社を辞めさせてほしい」という僕の意思を伝えました。「ただし資格が必要で、それにはお金がいるので1年間働かせてください。もしそれがダメだったらこの場でクビにしてください」と。

ただ漠然とやりたいことがあるというだけでは納得してもらえないと思ったので、紙に10年間の人生設計を細かく書いたものを渡しました。最終的に10年後に僕はZES™️になると書いたんですよ(笑)。

会長の返事は「よっしゃ分かった、やりたいようにやれ。ただし状況を定期的に報告してくれ」ということで、本当にいい会社に入ったなと思いました。今でも恩を感じています。2010年5月にはレベル1(現在のB1)、その後レベル2(現在のB2)、ZUMBA®︎ GOLD、AQUA ZUMBA®︎を受講して、7月には初来日したBetoのレッスンを受けに中野サンプラザに行きました。

一方で、退職すると決めてから、自分が今もらっている給料と同じか、それ以上の収入を得るために週にどのくらいのレッスン本数をしたらよいのか計算しながら、履歴書を持って飛び込みでスポーツクラブに売り込みに行き始めました。

岡山で一番大きなスポーツクラブを紹介してもらったんですが、ちょうどZUMBA🄬のインストラクターが辞めるのでレッスンをもてると言われたんですよ。45分の1レッスンをオーディションとして見せることになりました。そのオーディションが初めて人前でするZUMBA®️だったんです。

数日後、採用担当者の人には電話口で「一応、採用します。ただ、見た感じで素人だとすぐに分かりました。でも貴方が今までどのくらい練習をして、どんな思いでやっていたのかもよく分かりました。あとは場数を踏むだけだから、うちのメンバーさんに成長させてもらったらどうですか? 場所は提供するけれど、貴方の今の実力で採用されたとは思わないでね」と言われました。週3本のレギュラークラスからのスタートでした。

 

中村 ZUMBA🄬インストラクターとしての仕事は順調に進みましたか?

 

小林 計算上、最低でも週15本のレッスンをもたないと生活できないと思っていましたが、2ヶ月後の10月には週17本になり、1年後には週28本まで増えました。休みがなくて1日4レッスン、福山市や岡山市内のクラブを回って身体がボロボロになりました。1年間ぐらい勢いだけでやっていたんですね。やはり素人感満載なのが自分でも分かってきて、壁にぶち当たりました。

メンバーさんから質問されても、知識がないので答えられないんですよね。当時の岡山ではZUMBA🄬というプログラム自体、知らない人たちがかなり多くて、ウォームアップでスクワット系の動きをやるとクレームが来たんです。「なんでこんなことをさせるの? 危なくないの?」と聞かれて、答えられなかった。僕も見よう見まね、知識がなくてただ漠然とやっていたものですから。 (つづく)